記憶と記録。
いまだ、これといった答えは出ない。
ひとつわかったのは、いわゆる「歴史」、大文字の歴史から零れ落ちる視線をのこしていきたいということ。万人に広く知れ渡る歴史に名を刻むことの尊さを認める一方で、やはりそこから抜け落ちるようなささやかな出来事やひとが消えゆくことへ寂しさを覚えるということ。
存在は、歴史にのこらなければ無かったことになる。確かにそこにあったものが、大きな文脈に入るに値しないと判断されることで、それがあった事実自体を消される。出来事を形作っているのは、他愛もない市井の記憶だというのにも関わらず。
だから、記憶を記録として普遍的なものへと変換してゆく。
寂しさと同時にあるのは、怒り。
その怒りは、感情や関係性の在り方がいとも容易く大枠の名前/記号に回収されてしまうことに対して日頃から感じる違和感や抵抗に、似ている。
一方で、誰かの記憶をいただくという営みに潜む搾取の側面。そういった傲慢さがあることを忘れてはならないし、それを気にかける努力を続けなければならない。
悩むことと苦しむことは時に重なってくるが、それくらいしかできないのだから、これからも丁寧に悩みたいと思った今日この頃。ひとと正面から向き合うためのしなやかさと優しさを身につけていきたい、この先へ。