入学式の頃にはもう桜が散り始めていることを、誰も気に留めなくなった。
微かにあたらしい匂いがする。
4月。始まりの季節というよりかは、その一歩手前。運動会の徒競走で、自分の組がスタートラインに立つのを待っているあの時間。そわそわしながら、体育座り。
少しの期待と多めの不安。
そう言うとあの子は、なんだか料理みたいだね、と笑った。
この季節に聴きたくなる曲がある。実は2月から聴いていたけれど。
春、なんて安直すぎるタイトルをつけたプレイリストを再生した。君だったらもっと気の利いたラベルを貼れるだろうね。
私の流す曲と君の聴く曲が、もしも1曲でも重なったら、ふたりで湯気の立った朝食を食べよう。その曲をかけながら過ごす、やわらかな朝を想像する。
けれど、そんな朝は訪れない。
君は私を見ていない。
君の透き通った瞳はいつだって私を通り抜けて、もっと遠くの何かを見ている。
私の知らない、どこか。
花びらが貼りついてちょっと汚くなった川の土手を歩く。
前もここを散歩したねと言うと、そうだっけ?と首を傾げる。
自分でも驚くほど小さな声で相槌をうち、自らの記憶力のよさを恨んだ。
春眠暁を覚えず。
不満そうに君が呟く。
どんな季節だって眠れないあの子は、世間がまどろむ春が嫌いだった。置いていかれるようで好きじゃない、と言っていた去年の4月。
私が、私のもつすべてで君を包み込んだら、君は安心して瞼を閉じられるだろうか。
見返りを求めてはいけない。
それが暗黙のルールだった。
来るもの拒まず、去るもの追わず。
それが君の意志だった。
たとえ一度も君の目に映らなかったとしても良かった。それでも私は、君の横に立っていたかった。
これまで出会ってきたひとのなかで、いちばん正直なひと。
自らが誰かを傷つけてしまうことに苦しいほど自覚的なひと。
それでいて、自分の傷を隠すひと。傷があることすら、気づかせることを許さない。
月並みな表現でいえば、確かに糸で繋がっていたと思う。糸の色の名前は分からない。
ただ、君は真っ直ぐ立って糸の端を持っていて、決してそれを動かさなかった。
糸の長さを変えるのは、もう片方の端を持つ私の役割だった。
近づいても離れず、離れても近づかない。
そんな姿がもどかしかったけれど、でもやっぱり、うつくしかった。
つい、憧れてしまった。
だから、もうおわり。
私は手を離した。
君は何事もなかったかのように、手を振った。その指に絡んだ糸の行き先は知らない。
ただひとつ確かなのは、あの子と私は、私たち、にはなれなかったということだけ。
いつかまた、私が横に立ったとき、何食わぬ顔で君は笑ってくれるだろう。
その透明さは、大人になれない私には酷だった。
肌に触れる春の雨が、頬が体温を持っていることを思い出させる。
風邪ひくよ、と少し怒る顔は、ただただ記憶のなかで鮮やかだ。
見かねた君が言う「よーいどん!」
吹かれた笛の音を、祈りだったと信じたい。