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このブログの書き手が複数人いてもいいのではと、ふと思った。

シェイクスピアだって何人かいるという説もあるし、かつての名だたるフィレンツェの画家たちだって工房で創作していたわけであるし(勿論、彼らの技量に私の散文が見合うとは思っていない)。

けれど、私のなかに文字を綴る人格のようなものが複数あるのは確かなこと。人格というより、モードとでもいうべきか。文字を生み出す時に浸かる水の質感、といったら伝わるだろうか。実際に湯船に入りながら書いているわけではない。脳を浸す液体のあたたかさと硬さの話。切り替えている意識がある。これってたぶん、私だけではなくて誰もがやっていることだとも思う。レポートを書くときと友人にメッセージを送るときの文体は当然ながら異なるだろう。

だからちょっとだけ考えた。

同じ人間が書いているはずなのに当たり外れが激しい、と思う人がいるのではないかと。

そもそもそんな熱心な読者なんかいないよ!という最もな指摘にはひとまず耳を塞がせてもらおう。仮定をこねくり回せることが、この壁打ちブログの特権である。

壁打ち、独り言って意味があるのかなと思うこともあるが、結局私は頭のなかをひとつひとつ形にしていかなければ自身を把握できない。

少し例え話を挟ませてもらってもいいだろうか。

 

あなたが美術家だとしよう。演奏家でもいい、役者、小説家、詩人でもいい。たとえ世界にひとりだけになったとしても、展覧会をひらくだろうか?演奏会をひらくだろうか?芝居をするだろうか?本を出すだろうか?

あるいは、あなたが表現だと思うものならなんでもいい。

受け取る人がいなくても、その表現を発表するだろうか?

こうした問いを時折考えるが、この壁打ちはこれと似たようなことかもしれない。誰も読む人がいなかったとしても、私は「公開」という形で文字を繋げていくだろう。自分というものを、ある種の他者として切り離して理解するために。この面倒な手順を踏まずに息が出来るほど器用な人間ではないから。

 

さて、寄り道から戻ろう。記事を複数人で書くという話をしていたはずだ。

「この記事は好きだけど、この記事はあんまりだなぁ」みたいな人がもしいたとすれば、いっそのこと、実はそれ作者が別ですとしてしまった方がいいのではないか。その文は月曜シフトのねりあめ屋のでそっちは水曜シフトの人が書いてるんですよね〜、みたいな。

ある友人が言っていた。「自分の好きなバンドの今の方向性が嫌い、1番好きだった頃で消えてほしい」。こういうこと、たまにある。好きなアイドルとか、俳優とか、小説家とか。この面は見たくなかった!と思うこと、確かにある。特に、現役で活動されている小説家さんなんかだと、ご自身のライフスタイルに合わせて作風が変わっていくのを感じる。

そういった事態に遭遇したとき、きっとこう思うのではないだろうか。

この人のこと嫌いになりたくないんだけど、ちょっと苦手かもしれない…。でも確かに好きだったし…。

合わなくなってしまったけど嫌いになりたくない。好きだった頃の作品は今でも好き。こうした矛盾を抱えることになる。

芸能人だったり作家だったり、その相手が直接の知り合いでなかったらあまり問題はない。そっと離れたらいいだけだ。

それでも少し矛盾にもやもやしてしまう人もいるかもしれない。そこで、複数人の作者の話に戻る。

そもそも作者自体が違ったとしたら、気が楽になるのではないだろうか。互いにずるい話ではある。

芸能人といった人自身のファンの場合は少し難しいが、ドラマでのその人とか、バラエティに出ているときのその人とか、その辺りだろうか。

あなたが好きなその人を、そのまま好きと言っていいということになる。

 

では、著名人ではなくて、身近な人の話として考えてみよう。

ひさしぶりに会った友人の雰囲気が少し変わったと感じること、あるいは逆に変わらないなと安心すること。知らない一面を知ってしまったとき。

あなたはどうするだろうか?

相手も人間なのだから、変わらないことはあり得ない。諸行無常、万物は流転する。

昔のあなたのほうが良かった、と言われたことはないけれど、もし言われたときのことを考えてみる。

それはそれで、まぁいいのではないだろうか。

あなたが好ましく思っていた頃の私はそれで嬉しいだろうし、私は必ずしも対あなた用ではない。5年前のほうがいい、とか言われても今さら仕方がない。いまの私から出来ることは、その頃の私に良かったねと声をかけることくらいである。

いま、好ましく思えない地点から、どう向き合っていくかを考えればそれでいい。ちょっと苦手になってしまった人に対してでも、たぶん、お疲れ〜って言えると思う。

実生活で関わる人間に対して自身の理想だけを押しつけるのは、暴力的なことである。

 

自分に対しても同じ話だ。

自分というのは、おそらく1番近しい他者としても位置付けられるのだろう。

複数人の書き手がいるとはそういうこと。

それは一人称だったり扱う言語の問題に繋がってくると思うのだけれど、長くなりそうなので気が向いたらまた別の時に。

 

まとまらなさ。

ひとつ確かなことは、こんなことを四六時中考えているから眠るのに映画2本分の時間を要するということである。

(寝つきのよさと胃の強さがあれば、生きやすさは格段と違うだろう)