ねりあめ屋

ねりあめ屋です。

言葉と窒息

久しぶりに、ヤマシタトモコによる漫画『違国日記』を読んでいる。6月に実写映画が公開されるらしい。

私が言うまでもなく名作だが、やはり一人ひとりの登場人物の不器用さが愛おしくて、語られる言葉の数々がゆっくりと響いていく。殊更、物を書くということについて触れられた箇所は共感することも多い。

すっかり影響されて、自らがなぜ文字を連ねているのかを言語化したいと思った(余談になるけれど、ジャンルに関わらずよい作品というものは、受け手に対しても何かしらの表現欲や衝動を沸かせるものだなとつくづく思う)。

 

文章を綴ることに関しての生い立ちや、初めて物語を書いた時のことなどは、ここで語りたくないので詳しくは書かない。昔から、読書と空想が日常に貼り付いていたので、言葉を綴るようになったのはごく自然な流れだった。ただ、ある時期から、私にとって書くことは救いと似たような意味を持っていたように思う。

私による、私自身のための救いである。

自らの存在が地面から揺らぐような恐怖を感じたことはあるだろうか。あなたはどこにも誰にとっても必要じゃない、と突きつけられるような。むしろ、私なんていないほうがいい、と感じるような。

そんなときに怒りを叫べるほど強い人間だったらよかったのだけれど、ただ流れに身をまかせて水に沈んでいくほかの術を持っていなかった。

どうにか息をするために、飲み込んでしまった水を吐き出す。それが書くという行為だった。言葉を連ねるだけではなく絵を描いたりもしたが、結局は文章を綴ることが性に合っていたと思う。

それらを生み出しているあいだは、私だけの時間だ。何者にも私の存在を揺るがすことは出来ない。

あるいは寂しさ。友人がいないとかそういうことではなくて、自らの求める助けを、誰にも共有できない/してはいけないという緊張。自分のことは自分で救わなければならないという切迫感。そういったものを埋めるために、ただひたすら書いた。

要は、相談というものができない人間だったからとりあえず書いていた、という情けない話である。可哀想ですらない。幸か不幸か、続けるうちに言葉そのものと遊ぶのが楽しくなってしまって、習慣的に何かしらを綴るようになった。ただそれだけのこと。

次第に、紡いだ言葉を通して誰かと重なることが出来たり。私のつくったものはある意味で私そのものだから、それは嬉しいことだった。息がしやすくなったような。

いまは、書いたあとに切り離すという動作が面白くて、公開というかたちをとっているけれど、この先はどうだか。

いつか痛みのない文章を書くことが出来たなら、ささやかに祝おうとは思っている。

 

 

おまけ:フィクションをつくることについて書いたこともあった(ネグレクトを想起させる描写があるので苦手な方はご注意ください)。

 

neriameya-rur0.hatenablog.com

 

旅を内在化する

近年、ひとりで旅をする機会が増えた。増やしたともいう。

元来は結構な神経質で、知らない土地に行くことや知らない場所で眠ることに不安を覚える類の人間だったが、一度ひとりで旅に出てみたら不思議と枷が外れた。以来、暇(そしてお金)があれば行きたいところへ行くことにしている。

 

旅をすると、いかに自分がその土地で異物であるかを自覚する。言葉のイントネーションがその最たるもので、宿や駅、信号待ちの時に隣から聞こえてくる他愛もない会話が、お前は外から来た者だと暗に示しているよう。

偶然か必然か、あまり華やかでない土地に行くことが多い。華やかでない、というのは決して否定的な意味ではなくて、単に、観光地然としすぎていないという意味。日常と観光が地続きだけれど、生活と来訪者の境界が鮮明な土地。

さらに、平日だったりあるいはいわゆる閑散期に尋ねることが多いので、人が少ない。人が少ないということは、観光客の私が目立つということでもある。ここでも、自らが異物であることを感じる。

端的に言って、居心地が悪い。

けれど、先日気がついたのは、居心地の悪さを忘れないために私はひとり旅をしているのではないか、ということ。

自身のほかに乗客がいない路線バス。ぽつりぽつりと常連さんらしき方がやってくる喫茶店。片手で数えられるほどしかお客さんのいない定食屋。

そこで私は、その場所のルールを一切知らないことに気後れする。どのように振る舞うべきかを考える。店員さんなどの相手に不快感を与えないために、表情と行動を組み立てる。丁寧に言葉を選ぶ。

それは、普段の日常生活ではついおざなりにしがちなことで、しかし他者と関わるためには必要不可欠な姿勢だ。自らが他者に対して不快感あるいは不信感を与える脅威となり得ること、努力なしに関係性は成り立たないということ、等々。

ひとと関わる、すなわち自らの内に他者を招き入れるということは、重ねてきた積み木を崩してそしてまた高く広く積んでいくことだと思う。その作業を根気強く続けることは、断じて簡単なことではない。積んでいくにつれ、自身の考える正しい積み方を固めて傲慢になってしまったり、これ以上積むのをやめてしまうこともあるだろう。安定が悪だとは言わない。ただ、時々、自らが積んだ山から離れてみてもいいのではないか。

そうして感じる居心地の悪さは、誰かとよりしなやかに関わっていく仕草の糸口を照らしたり、あるいは無意識に自分自身を縛っていた「らしさ」のようなものを溶かしていくかもしれない。

誰かと歩くためにひとりで旅をしたくなる。

一見矛盾しているようだが、私にとってのひとり旅とはこういうものなのだ。

 

部屋の片付けをしていて発掘された、高校生の頃に書いた作文。

曰く、「いくら旅をしたとしても自分からは逃れられない」。

春だから浮かれてしまったんだ

入学式の頃にはもう桜が散り始めていることを、誰も気に留めなくなった。

微かにあたらしい匂いがする。

4月。始まりの季節というよりかは、その一歩手前。運動会の徒競走で、自分の組がスタートラインに立つのを待っているあの時間。そわそわしながら、体育座り。

少しの期待と多めの不安。

そう言うとあの子は、なんだか料理みたいだね、と笑った。

 

この季節に聴きたくなる曲がある。実は2月から聴いていたけれど。

春、なんて安直すぎるタイトルをつけたプレイリストを再生した。君だったらもっと気の利いたラベルを貼れるだろうね。

私の流す曲と君の聴く曲が、もしも1曲でも重なったら、ふたりで湯気の立った朝食を食べよう。その曲をかけながら過ごす、やわらかな朝を想像する。

けれど、そんな朝は訪れない。

君は私を見ていない。

君の透き通った瞳はいつだって私を通り抜けて、もっと遠くの何かを見ている。

私の知らない、どこか。

 

花びらが貼りついてちょっと汚くなった川の土手を歩く。

前もここを散歩したねと言うと、そうだっけ?と首を傾げる。

自分でも驚くほど小さな声で相槌をうち、自らの記憶力のよさを恨んだ。

 

春眠暁を覚えず。

不満そうに君が呟く。

どんな季節だって眠れないあの子は、世間がまどろむ春が嫌いだった。置いていかれるようで好きじゃない、と言っていた去年の4月。

私が、私のもつすべてで君を包み込んだら、君は安心して瞼を閉じられるだろうか。

 

見返りを求めてはいけない。

それが暗黙のルールだった。

来るもの拒まず、去るもの追わず。

それが君の意志だった。

たとえ一度も君の目に映らなかったとしても良かった。それでも私は、君の横に立っていたかった。

これまで出会ってきたひとのなかで、いちばん正直なひと。

自らが誰かを傷つけてしまうことに苦しいほど自覚的なひと。

それでいて、自分の傷を隠すひと。傷があることすら、気づかせることを許さない。

 

月並みな表現でいえば、確かに糸で繋がっていたと思う。糸の色の名前は分からない。

ただ、君は真っ直ぐ立って糸の端を持っていて、決してそれを動かさなかった。

糸の長さを変えるのは、もう片方の端を持つ私の役割だった。

近づいても離れず、離れても近づかない。

そんな姿がもどかしかったけれど、でもやっぱり、うつくしかった。

つい、憧れてしまった。

 

だから、もうおわり。

 

私は手を離した。

君は何事もなかったかのように、手を振った。その指に絡んだ糸の行き先は知らない。

ただひとつ確かなのは、あの子と私は、私たち、にはなれなかったということだけ。

 

いつかまた、私が横に立ったとき、何食わぬ顔で君は笑ってくれるだろう。

その透明さは、大人になれない私には酷だった。

 

肌に触れる春の雨が、頬が体温を持っていることを思い出させる。

風邪ひくよ、と少し怒る顔は、ただただ記憶のなかで鮮やかだ。

 

見かねた君が言う「よーいどん!」

吹かれた笛の音を、祈りだったと信じたい。

相関図とかどうでもいい

記憶と記録。

いまだ、これといった答えは出ない。

ひとつわかったのは、いわゆる「歴史」、大文字の歴史から零れ落ちる視線をのこしていきたいということ。万人に広く知れ渡る歴史に名を刻むことの尊さを認める一方で、やはりそこから抜け落ちるようなささやかな出来事やひとが消えゆくことへ寂しさを覚えるということ。

存在は、歴史にのこらなければ無かったことになる。確かにそこにあったものが、大きな文脈に入るに値しないと判断されることで、それがあった事実自体を消される。出来事を形作っているのは、他愛もない市井の記憶だというのにも関わらず。

だから、記憶を記録として普遍的なものへと変換してゆく。

 

寂しさと同時にあるのは、怒り。

その怒りは、感情や関係性の在り方がいとも容易く大枠の名前/記号に回収されてしまうことに対して日頃から感じる違和感や抵抗に、似ている。

 

一方で、誰かの記憶をいただくという営みに潜む搾取の側面。そういった傲慢さがあることを忘れてはならないし、それを気にかける努力を続けなければならない。

悩むことと苦しむことは時に重なってくるが、それくらいしかできないのだから、これからも丁寧に悩みたいと思った今日この頃。ひとと正面から向き合うためのしなやかさと優しさを身につけていきたい、この先へ。

ねりあめ屋アルバイト募集!

このブログの書き手が複数人いてもいいのではと、ふと思った。

シェイクスピアだって何人かいるという説もあるし、かつての名だたるフィレンツェの画家たちだって工房で創作していたわけであるし(勿論、彼らの技量に私の散文が見合うとは思っていない)。

けれど、私のなかに文字を綴る人格のようなものが複数あるのは確かなこと。人格というより、モードとでもいうべきか。文字を生み出す時に浸かる水の質感、といったら伝わるだろうか。実際に湯船に入りながら書いているわけではない。脳を浸す液体のあたたかさと硬さの話。切り替えている意識がある。これってたぶん、私だけではなくて誰もがやっていることだとも思う。レポートを書くときと友人にメッセージを送るときの文体は当然ながら異なるだろう。

だからちょっとだけ考えた。

同じ人間が書いているはずなのに当たり外れが激しい、と思う人がいるのではないかと。

そもそもそんな熱心な読者なんかいないよ!という最もな指摘にはひとまず耳を塞がせてもらおう。仮定をこねくり回せることが、この壁打ちブログの特権である。

壁打ち、独り言って意味があるのかなと思うこともあるが、結局私は頭のなかをひとつひとつ形にしていかなければ自身を把握できない。

少し例え話を挟ませてもらってもいいだろうか。

 

あなたが美術家だとしよう。演奏家でもいい、役者、小説家、詩人でもいい。たとえ世界にひとりだけになったとしても、展覧会をひらくだろうか?演奏会をひらくだろうか?芝居をするだろうか?本を出すだろうか?

あるいは、あなたが表現だと思うものならなんでもいい。

受け取る人がいなくても、その表現を発表するだろうか?

こうした問いを時折考えるが、この壁打ちはこれと似たようなことかもしれない。誰も読む人がいなかったとしても、私は「公開」という形で文字を繋げていくだろう。自分というものを、ある種の他者として切り離して理解するために。この面倒な手順を踏まずに息が出来るほど器用な人間ではないから。

 

さて、寄り道から戻ろう。記事を複数人で書くという話をしていたはずだ。

「この記事は好きだけど、この記事はあんまりだなぁ」みたいな人がもしいたとすれば、いっそのこと、実はそれ作者が別ですとしてしまった方がいいのではないか。その文は月曜シフトのねりあめ屋のでそっちは水曜シフトの人が書いてるんですよね〜、みたいな。

ある友人が言っていた。「自分の好きなバンドの今の方向性が嫌い、1番好きだった頃で消えてほしい」。こういうこと、たまにある。好きなアイドルとか、俳優とか、小説家とか。この面は見たくなかった!と思うこと、確かにある。特に、現役で活動されている小説家さんなんかだと、ご自身のライフスタイルに合わせて作風が変わっていくのを感じる。

そういった事態に遭遇したとき、きっとこう思うのではないだろうか。

この人のこと嫌いになりたくないんだけど、ちょっと苦手かもしれない…。でも確かに好きだったし…。

合わなくなってしまったけど嫌いになりたくない。好きだった頃の作品は今でも好き。こうした矛盾を抱えることになる。

芸能人だったり作家だったり、その相手が直接の知り合いでなかったらあまり問題はない。そっと離れたらいいだけだ。

それでも少し矛盾にもやもやしてしまう人もいるかもしれない。そこで、複数人の作者の話に戻る。

そもそも作者自体が違ったとしたら、気が楽になるのではないだろうか。互いにずるい話ではある。

芸能人といった人自身のファンの場合は少し難しいが、ドラマでのその人とか、バラエティに出ているときのその人とか、その辺りだろうか。

あなたが好きなその人を、そのまま好きと言っていいということになる。

 

では、著名人ではなくて、身近な人の話として考えてみよう。

ひさしぶりに会った友人の雰囲気が少し変わったと感じること、あるいは逆に変わらないなと安心すること。知らない一面を知ってしまったとき。

あなたはどうするだろうか?

相手も人間なのだから、変わらないことはあり得ない。諸行無常、万物は流転する。

昔のあなたのほうが良かった、と言われたことはないけれど、もし言われたときのことを考えてみる。

それはそれで、まぁいいのではないだろうか。

あなたが好ましく思っていた頃の私はそれで嬉しいだろうし、私は必ずしも対あなた用ではない。5年前のほうがいい、とか言われても今さら仕方がない。いまの私から出来ることは、その頃の私に良かったねと声をかけることくらいである。

いま、好ましく思えない地点から、どう向き合っていくかを考えればそれでいい。ちょっと苦手になってしまった人に対してでも、たぶん、お疲れ〜って言えると思う。

実生活で関わる人間に対して自身の理想だけを押しつけるのは、暴力的なことである。

 

自分に対しても同じ話だ。

自分というのは、おそらく1番近しい他者としても位置付けられるのだろう。

複数人の書き手がいるとはそういうこと。

それは一人称だったり扱う言語の問題に繋がってくると思うのだけれど、長くなりそうなので気が向いたらまた別の時に。

 

まとまらなさ。

ひとつ確かなことは、こんなことを四六時中考えているから眠るのに映画2本分の時間を要するということである。

(寝つきのよさと胃の強さがあれば、生きやすさは格段と違うだろう)

おやすみ前の物語

一通の、手紙を書いた。

お久しぶりです。お元気ですか?

しばらく会っていないひと。

手紙を書く時間は、その送り相手のことを考える時間だ。

ともすれば、書いている時間だけではなくて、便箋や封筒を選ぶ時からそのひとの顔を思い浮かべている。似合いそうな便箋、好きそうな封筒。私のなかのあなたでしかないけれど、これを受け取ったそのときの顔にやわらかく笑みが広がりますように、と願いながら。

最近、好きな歌人さんができました。調子にのって歌集を揃えてしまいました。もしかすると、あなたも好きかもしれません。そちらはいかがお過ごしですか。

あのひとに話したいことを、ぜんぶ、ぜんぶ、文字にする。

藍色のインクが染み込んでいく。少し鬱陶しいくらい、便箋は藍で染まっていく。

あなたに会えていないこの時間を、たくさん、たくさん、伝えたい。

この重さはきっとLINEでは許されないから、ちょっと古風な媒体のノスタルジーを隠れ蓑にする。こぼれ落ちてしまうものも確かにあるけれど、それもまた一興。

クスッと笑えるような切手を選んで貼って、投函する。

きっとあなたは受け取ってくれて、少し先になるかもしれないけれど、たぶん返事をくれるだろう。私が勝手に書いただけだから、必ずしも返事をしなくてはならないわけではない。だけどやっぱり、返事をもらえると嬉しい。

毎日ポストをみるという退屈な反復動作が、楽しさに変わるこの期間。

 

図書館で、とある哲学者の書簡集に目を通した。

最初に載っていたのは5歳の時の手紙。おとうさん、おかあさん、で始められる可愛らしい文章が、数百年の時を経てこうして万人のもとへ。

読んでいて少し恥ずかしい。その時代の手紙というものは、一種の公文書という扱いだったからなのだそうだけれど、それにしたってじわじわとくる罪悪感。

幼い頃の手紙。

小学校の時にもらった匿名のラブレターはカレンダーの裏紙だったから、私はてっきりいたずらだと思ったけれど、実際はどうだったのか。差出人が不明でも手紙が届くのは、それが大きな矢印だから。伝わらなくてもいい、書いたひと自身のための手紙だって、時にはある。

 

かの時代には、手紙に香をくぐらせたり花を添えたりしたという。

香りが薄れていくこと、花が枯れていくことに、果たして私は耐えられるだろうか。

移りゆくものがなくならないうちに次の便りを出す、そんな慈しみのかたちがあったのかもしれない。

 

あなたからの返事が届く頃には、ホットミルクが似合わない季節になっているかもしれません。いまはまだ少し冷える指先で、かつてあなたから届いた便箋をめくります。

なかなか落ち着かない候ですが、どうぞご自愛くださいませ。

「⚪︎⚪︎さんなら繋がってるから、連絡とっておくよ」

よく耳にするこの一文。

「繋がっている」とは一体どういうことなのだろうか?

文脈で考えると、連絡先を持っているということだろう。メール、電話、LINE、SNSのDMなど、何かしらの手段でメッセージが送れるということ。あまり当てはまらないかもしれないが、住所を知っていて手紙を送ることが出来る、なんてパターンもあるかもしれない。

では、メールアドレスや電話番号を変更したら?LINEやSNSを削除したら?引っ越したら?

次の行き先を告げられず連絡先を変更された場合、「繋がる」手段は無くなる。少し考えてみれば当たり前のことだ。しかし、そんなことをする人は多くはないため、この当たり前のことを普段は意識しない。一報もなく連絡手段を断ち切るひと、それは一般に「飛んだ」状態だと言われる。そして「飛ぶ」ことは非常識なことだとされている。これに対して特段の異議はない。とりわけ仕事相手ならば、職場を離れる前に一言欲しいというのが本心だ。

けれども、ここで言いたいのは「飛ぶ」人間への文句ではない。何らかの切羽詰まった理由で「飛ぶ」ひともいるだろう。かくいう私も、しんどさが限界に近くなってきた時には、プライベートな連絡を疎かにしがちな性格である。仕事関係の連絡は元来の小心者気質のおかげで続けられるのだが、そこでもう充電切れ。相手の気を悪くしないように文章や会話を組み立てるささやかな動作が、いつもは難なく出来るのに、途端に努力を要するものへと変わってしまうのである。俗にいう、余裕がない状態というのはまさにこうした状態のことだろう。便りがないのはいい便り、という諺については半信半疑である。

......些か話が逸れてしまった。本題に入ろう。

ただ単に連絡先を知っているという状態は、本当に「繋がっている」状態と言えるのか?というお話。

これまでの流れからお察しの通り、「繋がっている」とは言い切れないと思う。しかしこれには、ある側面においてはその限りではない、という注釈がつく。

連絡先を知っていることが「繋がっている」状態だとすると、私と一番深いつながりを持っているのは、Metaだったり、クレジットカード会社ということになる。確かに、SNS運営会社やクレジットカード会社と私の結びつきは強いだろう。ある側面においては、というのはこういった場合だ。公的な領域においては、連絡手段をより多く持っている状態こそが、強く「繋がっている」状態だと考えられるのである。いわゆる個人情報を掴まれている状態とも言える。

ただ、いまここで書き留めたいのは、私的な領域においての「繋がる」ということについて。

私的に「繋がる」とはどのようなことか?

よく顔を合わせたり、頻繁に連絡を取り合ったり、といったことが挙げられるのではないだろうか。ちなみに、連絡先を持っていることと、連絡を取り合うことは大きく違う。前者はただ単に相手の存在を認識しているだけで、後者は相手を知ることが出来る。そう、私的な領域における「繋がる」とは、相手を知ることなのである。

会うことも、連絡を送ることも、それ自体が目的ではない。その時に相手がどのような状況か、何を考えているのかなどを知るために行う仕草だ。

知りたいと感じる相手に対して、ひとは会う約束を取りつけたりメッセージを送ったりする。時間を共有することで、相手のことをより深く知りたいという思い、場合によっては自身のことも知ってもらいたいという思いが実現される。

おそらくこれが、私的な領域での「繋がる」ということだ。

公的な領域においても、会議の場など、相手の考えを知るという光景は日常的にある。相手を知るという行為が、自身にとって公的な領域で行われるか私的な領域で行われるかの違いだ。その区別は必ずしも二項対立ではないし、公的な領域をきっかけに私的な繋がりが生まれることも多くある。よき仕事仲間がよき友人になる例も少なくないだろう。

相手に自らを明け渡してもらい自身も相手に明け渡すこと、これが私的に「繋がる」こと。

 

じゃあなんだ、結局あなたが言いたいのは、ひとと分かりあうことが大事ってことなのか?

ここまでつらつらと書いていると、こんな声が聞こえてきそうである。しかしそうではない。むしろ、私が心に留めておきたいのはその逆とも言えることだ。

いつだって自らの意思で繋がりを解くことができるということ。

連絡先を持っていることそれ自体は、私的に「繋がる」状態と直結はしない。ただ、連絡手段があればあるほど私的に「繋がる」ことのできる可能性は高くなる。

逆にいうと、連絡先を減らせば減らすほど、相手から「繋がる」ことができる可能性は低くなる。これもまぁ、当たり前。けれどもやっぱり、何かと繋がっていることが常となっていることが指摘されている今日この頃、いつでもこの「繋がり」を断てることを私たちは忘れがちだ。

自由に「繋がり」を解ける、ふっと姿をなくすことができる。

メールアドレスも電話番号もLINEもSNSアカウントも、なんならこのブログも消すことができる。引っ越しは難しいかもしれないが、長いあいだ旅に出たっていい。

だって私はどんな時でも私のものだから。

そう思うと、少し呼吸が楽になる。

このように考えてみると、そんな今にでも断ち切れる「繋がり」を保つことには、おそらく日頃感じている以上にエネルギーが使われているのだろう。これがきっと、人間関係が尊ばれる理由のひとつなのだろうし、ひとと継続的に関係を築くことのできる人間がもてはやされる理由ではないだろうか。

なんとまぁ分かりきったことを、と言われるかもしれない。こんな長文でつらつらと。

だが、不文律をいちいち書き留めないと落ち着かない日だってある。そういった日は、不思議と、透明になりたい願望が高まる日でもあって。

ばいちゃ!って感じで軽やかに、いつの間にか去っていきたいものである(唐突なアラレ語)。