ねりあめ屋

ねりあめ屋です。

「⚪︎⚪︎さんなら繋がってるから、連絡とっておくよ」

よく耳にするこの一文。

「繋がっている」とは一体どういうことなのだろうか?

文脈で考えると、連絡先を持っているということだろう。メール、電話、LINE、SNSのDMなど、何かしらの手段でメッセージが送れるということ。あまり当てはまらないかもしれないが、住所を知っていて手紙を送ることが出来る、なんてパターンもあるかもしれない。

では、メールアドレスや電話番号を変更したら?LINEやSNSを削除したら?引っ越したら?

次の行き先を告げられず連絡先を変更された場合、「繋がる」手段は無くなる。少し考えてみれば当たり前のことだ。しかし、そんなことをする人は多くはないため、この当たり前のことを普段は意識しない。一報もなく連絡手段を断ち切るひと、それは一般に「飛んだ」状態だと言われる。そして「飛ぶ」ことは非常識なことだとされている。これに対して特段の異議はない。とりわけ仕事相手ならば、職場を離れる前に一言欲しいというのが本心だ。

けれども、ここで言いたいのは「飛ぶ」人間への文句ではない。何らかの切羽詰まった理由で「飛ぶ」ひともいるだろう。かくいう私も、しんどさが限界に近くなってきた時には、プライベートな連絡を疎かにしがちな性格である。仕事関係の連絡は元来の小心者気質のおかげで続けられるのだが、そこでもう充電切れ。相手の気を悪くしないように文章や会話を組み立てるささやかな動作が、いつもは難なく出来るのに、途端に努力を要するものへと変わってしまうのである。俗にいう、余裕がない状態というのはまさにこうした状態のことだろう。便りがないのはいい便り、という諺については半信半疑である。

......些か話が逸れてしまった。本題に入ろう。

ただ単に連絡先を知っているという状態は、本当に「繋がっている」状態と言えるのか?というお話。

これまでの流れからお察しの通り、「繋がっている」とは言い切れないと思う。しかしこれには、ある側面においてはその限りではない、という注釈がつく。

連絡先を知っていることが「繋がっている」状態だとすると、私と一番深いつながりを持っているのは、Metaだったり、クレジットカード会社ということになる。確かに、SNS運営会社やクレジットカード会社と私の結びつきは強いだろう。ある側面においては、というのはこういった場合だ。公的な領域においては、連絡手段をより多く持っている状態こそが、強く「繋がっている」状態だと考えられるのである。いわゆる個人情報を掴まれている状態とも言える。

ただ、いまここで書き留めたいのは、私的な領域においての「繋がる」ということについて。

私的に「繋がる」とはどのようなことか?

よく顔を合わせたり、頻繁に連絡を取り合ったり、といったことが挙げられるのではないだろうか。ちなみに、連絡先を持っていることと、連絡を取り合うことは大きく違う。前者はただ単に相手の存在を認識しているだけで、後者は相手を知ることが出来る。そう、私的な領域における「繋がる」とは、相手を知ることなのである。

会うことも、連絡を送ることも、それ自体が目的ではない。その時に相手がどのような状況か、何を考えているのかなどを知るために行う仕草だ。

知りたいと感じる相手に対して、ひとは会う約束を取りつけたりメッセージを送ったりする。時間を共有することで、相手のことをより深く知りたいという思い、場合によっては自身のことも知ってもらいたいという思いが実現される。

おそらくこれが、私的な領域での「繋がる」ということだ。

公的な領域においても、会議の場など、相手の考えを知るという光景は日常的にある。相手を知るという行為が、自身にとって公的な領域で行われるか私的な領域で行われるかの違いだ。その区別は必ずしも二項対立ではないし、公的な領域をきっかけに私的な繋がりが生まれることも多くある。よき仕事仲間がよき友人になる例も少なくないだろう。

相手に自らを明け渡してもらい自身も相手に明け渡すこと、これが私的に「繋がる」こと。

 

じゃあなんだ、結局あなたが言いたいのは、ひとと分かりあうことが大事ってことなのか?

ここまでつらつらと書いていると、こんな声が聞こえてきそうである。しかしそうではない。むしろ、私が心に留めておきたいのはその逆とも言えることだ。

いつだって自らの意思で繋がりを解くことができるということ。

連絡先を持っていることそれ自体は、私的に「繋がる」状態と直結はしない。ただ、連絡手段があればあるほど私的に「繋がる」ことのできる可能性は高くなる。

逆にいうと、連絡先を減らせば減らすほど、相手から「繋がる」ことができる可能性は低くなる。これもまぁ、当たり前。けれどもやっぱり、何かと繋がっていることが常となっていることが指摘されている今日この頃、いつでもこの「繋がり」を断てることを私たちは忘れがちだ。

自由に「繋がり」を解ける、ふっと姿をなくすことができる。

メールアドレスも電話番号もLINEもSNSアカウントも、なんならこのブログも消すことができる。引っ越しは難しいかもしれないが、長いあいだ旅に出たっていい。

だって私はどんな時でも私のものだから。

そう思うと、少し呼吸が楽になる。

このように考えてみると、そんな今にでも断ち切れる「繋がり」を保つことには、おそらく日頃感じている以上にエネルギーが使われているのだろう。これがきっと、人間関係が尊ばれる理由のひとつなのだろうし、ひとと継続的に関係を築くことのできる人間がもてはやされる理由ではないだろうか。

なんとまぁ分かりきったことを、と言われるかもしれない。こんな長文でつらつらと。

だが、不文律をいちいち書き留めないと落ち着かない日だってある。そういった日は、不思議と、透明になりたい願望が高まる日でもあって。

ばいちゃ!って感じで軽やかに、いつの間にか去っていきたいものである(唐突なアラレ語)。