ねりあめ屋

ねりあめ屋です。

おやすみ前の物語

一通の、手紙を書いた。

お久しぶりです。お元気ですか?

しばらく会っていないひと。

手紙を書く時間は、その送り相手のことを考える時間だ。

ともすれば、書いている時間だけではなくて、便箋や封筒を選ぶ時からそのひとの顔を思い浮かべている。似合いそうな便箋、好きそうな封筒。私のなかのあなたでしかないけれど、これを受け取ったそのときの顔にやわらかく笑みが広がりますように、と願いながら。

最近、好きな歌人さんができました。調子にのって歌集を揃えてしまいました。もしかすると、あなたも好きかもしれません。そちらはいかがお過ごしですか。

あのひとに話したいことを、ぜんぶ、ぜんぶ、文字にする。

藍色のインクが染み込んでいく。少し鬱陶しいくらい、便箋は藍で染まっていく。

あなたに会えていないこの時間を、たくさん、たくさん、伝えたい。

この重さはきっとLINEでは許されないから、ちょっと古風な媒体のノスタルジーを隠れ蓑にする。こぼれ落ちてしまうものも確かにあるけれど、それもまた一興。

クスッと笑えるような切手を選んで貼って、投函する。

きっとあなたは受け取ってくれて、少し先になるかもしれないけれど、たぶん返事をくれるだろう。私が勝手に書いただけだから、必ずしも返事をしなくてはならないわけではない。だけどやっぱり、返事をもらえると嬉しい。

毎日ポストをみるという退屈な反復動作が、楽しさに変わるこの期間。

 

図書館で、とある哲学者の書簡集に目を通した。

最初に載っていたのは5歳の時の手紙。おとうさん、おかあさん、で始められる可愛らしい文章が、数百年の時を経てこうして万人のもとへ。

読んでいて少し恥ずかしい。その時代の手紙というものは、一種の公文書という扱いだったからなのだそうだけれど、それにしたってじわじわとくる罪悪感。

幼い頃の手紙。

小学校の時にもらった匿名のラブレターはカレンダーの裏紙だったから、私はてっきりいたずらだと思ったけれど、実際はどうだったのか。差出人が不明でも手紙が届くのは、それが大きな矢印だから。伝わらなくてもいい、書いたひと自身のための手紙だって、時にはある。

 

かの時代には、手紙に香をくぐらせたり花を添えたりしたという。

香りが薄れていくこと、花が枯れていくことに、果たして私は耐えられるだろうか。

移りゆくものがなくならないうちに次の便りを出す、そんな慈しみのかたちがあったのかもしれない。

 

あなたからの返事が届く頃には、ホットミルクが似合わない季節になっているかもしれません。いまはまだ少し冷える指先で、かつてあなたから届いた便箋をめくります。

なかなか落ち着かない候ですが、どうぞご自愛くださいませ。