ねりあめ屋

ねりあめ屋です。

旅を内在化する

近年、ひとりで旅をする機会が増えた。増やしたともいう。

元来は結構な神経質で、知らない土地に行くことや知らない場所で眠ることに不安を覚える類の人間だったが、一度ひとりで旅に出てみたら不思議と枷が外れた。以来、暇(そしてお金)があれば行きたいところへ行くことにしている。

 

旅をすると、いかに自分がその土地で異物であるかを自覚する。言葉のイントネーションがその最たるもので、宿や駅、信号待ちの時に隣から聞こえてくる他愛もない会話が、お前は外から来た者だと暗に示しているよう。

偶然か必然か、あまり華やかでない土地に行くことが多い。華やかでない、というのは決して否定的な意味ではなくて、単に、観光地然としすぎていないという意味。日常と観光が地続きだけれど、生活と来訪者の境界が鮮明な土地。

さらに、平日だったりあるいはいわゆる閑散期に尋ねることが多いので、人が少ない。人が少ないということは、観光客の私が目立つということでもある。ここでも、自らが異物であることを感じる。

端的に言って、居心地が悪い。

けれど、先日気がついたのは、居心地の悪さを忘れないために私はひとり旅をしているのではないか、ということ。

自身のほかに乗客がいない路線バス。ぽつりぽつりと常連さんらしき方がやってくる喫茶店。片手で数えられるほどしかお客さんのいない定食屋。

そこで私は、その場所のルールを一切知らないことに気後れする。どのように振る舞うべきかを考える。店員さんなどの相手に不快感を与えないために、表情と行動を組み立てる。丁寧に言葉を選ぶ。

それは、普段の日常生活ではついおざなりにしがちなことで、しかし他者と関わるためには必要不可欠な姿勢だ。自らが他者に対して不快感あるいは不信感を与える脅威となり得ること、努力なしに関係性は成り立たないということ、等々。

ひとと関わる、すなわち自らの内に他者を招き入れるということは、重ねてきた積み木を崩してそしてまた高く広く積んでいくことだと思う。その作業を根気強く続けることは、断じて簡単なことではない。積んでいくにつれ、自身の考える正しい積み方を固めて傲慢になってしまったり、これ以上積むのをやめてしまうこともあるだろう。安定が悪だとは言わない。ただ、時々、自らが積んだ山から離れてみてもいいのではないか。

そうして感じる居心地の悪さは、誰かとよりしなやかに関わっていく仕草の糸口を照らしたり、あるいは無意識に自分自身を縛っていた「らしさ」のようなものを溶かしていくかもしれない。

誰かと歩くためにひとりで旅をしたくなる。

一見矛盾しているようだが、私にとってのひとり旅とはこういうものなのだ。

 

部屋の片付けをしていて発掘された、高校生の頃に書いた作文。

曰く、「いくら旅をしたとしても自分からは逃れられない」。