ねりあめ屋

ねりあめ屋です。

つまるところ、関わりの話

書店で短歌集を手に取った。

うつくしい言葉の連なりに触れると、重い水からすっと引き上げられたような気持ちになる。

うつくしさと飾り気は全く違う。単に綺麗な単語を並べたものではなく、時には苦しみや痛みを内包した、けれどもそれらから脱け出そうとするうつくしさ。前へ進もうとするしなやかさがそこにはある。

丁寧な細工のアクセサリーとか、素敵な装飾のワンピースとか、ちらちらと輝くネイルとか、活版印刷のカードだとか、ときめきを感じるものはたくさんあるけれども、やっぱりいちばんは言葉だなと思う。誰かの言葉をいただくこと、誰かに言葉をあげること、ただただ言葉を置くこと。そのどれもに焦がれている。

4粒くらいしか入っていないチョコレートボックスを実はあまり理解できていなかったのだけれど、あれって短歌集みたいなものだったのか。ちいさなきらめきを手元に置いたり、ひとに贈ったり。

 

あたまの中でとめどなく言葉が流れていて、いよいよ窒息しそうだったので、こうして文字を綴っている。自分自身を濾過している。

実際の私というものは怠惰でどうしようもなく愚かな人間だけれど、文字を綴ると、出来上がったものは幾分か見ていられる。私から離れていった言葉は、私から離れたがゆえにうつくしくいられるのだろう。

 

言葉はそれ自体では成り立たない。使い方、届け方、受け止め方。どうしたって言葉を扱う存在が絡んでくる。煩雑に言葉が溢れるいま、言葉というものとそしてその向こうにある存在を見つめなければ、簡単に道を踏み外すことができる。できてしまう。

発する前に聴くこと、綴る前に深めること、こんな当たり前のことをいつから忘れてしまったのか。この虚しさを分つことだって、夢物語になりつつある。

真実を負って放たれた言葉と声が正しく届くことを願う、沈黙の夜。

 

揃いもそろって甘い贈りものになるわけではない。

ときめきを食むような言葉の一方で、味わう暇もないほど切実な言葉もあって、それに耳を澄ます日もしばしば。

どれも、離れたものなんかではなくて、すべて繋がっている。

そういったひとつひとつのわざを、留めていきたいと思った。

いつだってご機嫌で

眠るとき、朝に目が覚めたらリビングに行きたくなることを想像する。

それは現実とは程遠いことで、実際にやってくるのは、部屋でひとり、人の気配が無くなるのを待つ朝。

帰りたくなる場所がいつか手に入りますように。そこに誰かがいてもいなくても、帰りたくなるどこかがある、ただそれだけで良い。

けれども祈りである時点で、必ずしも叶わないこと。欲しいものは自分で手にしなきゃ。

 

最近、自分のことを好ましく思う。

なんというか、わたしいい感じだな!みたいな。気分が朗らかな時は、わたし最高だな!とすら思ったりする。なかなかに楽しい。どこがいいのかは、はっきりとは言えないけれども。

友人などから、あなたの空気が好きだと言ってもらうことが時折ある。やや疎遠になってしまった友人からは、あなたから滲み出るものから離れてしまって寂しい、と言われたり。ただの思いつきだけど、疎遠って疎縁ってことだ。

話を戻そう。そうやって言われるたびに、嬉しさ反面、私の纏う空気って一体なんだ?と考える。振る舞い方ということなのかとも思ったが、全く別のコミュニティにいる友人それぞれから言われたりするので、そうではないらしい。容姿とか性格なら理解しやすいけれど、空気ってなんぞや…。

せっかく周りのひとが認めてくれている私の良さを、当の本人がわからないのは少し悲しい。

近頃自分を受け入れつつある私は、「空気」を「存在」に拡大解釈してみたりした。それってつまり私の存在が好きってことでいいですか?という、自己肯定感が天井を突き破る勢いの問い。ありがたいことに、この馬鹿げた質問に大きく頷いてくれる稀有な友人もなかにはいる。でもさすがに、私の存在が好きってことだと解釈するのは気恥ずかしい。いま、この一連の文字を綴っていてもとても恥ずかしい。それでも文字を消さないのは、そうやって私を受け止めてくれる人がいるということを消したくないので。

何はともあれ、清々しさを持つと呼吸が楽になる。

 

こうして、自分自身を自らの帰りたくなる場所にしていくのだろうか。

その作業は、自身の輪郭を確かめていく行為でもある。春、すべてがぼやけ曖昧になる季節。柔らかい痛みを知ったあの頃にはとうに別れを告げるべきで、あとはしっかりと地を踏まなければならない。春を思うとはよく言ったものだ。

その変化は羽化と呼べるほど綺麗ではないが、もとよりいつでも美しくある必要はない。泥臭くもがいてみるのも乙なものだと、いい塩梅に肩の力が抜けた今日この頃。

 

真実は余白から生まれるのがお約束。

めでたしめでたし。

 

ほしいものリスト:真綿の布団

熱を出すと、迷惑そうな顔をされた。

10歳の頃には少しの体の不具合は自分でどうにか出来るようになっていて、僕は市販薬への感謝を絶やさなかった。部屋でひとり、蹲ってお腹の痛みと向き合いながら、早く時間が経ってくれないかなと呑気に目を瞑っていた。

そうしていくうちに、どんどん痛みという感覚に鈍くなっていって、怪我をすると僕よりも周りが驚いている、なんて状況が度々起きた。「大丈夫?」と、恐々と聞いてくれる友だちや先生に、へらへらと笑って言う「なんかやっちゃったみたい」。

こどもと大人の間の頃に、40度くらいの熱を出した。いつものように、大丈夫、と言って、笑いながら手を振る。久しぶりの高熱はさすがに堪えて、誰か傍にいてくれるといいなぁとわがままを思って、寂しさを消すためにラジオをつけた。頭が痛くて、内容はまったく分からなかった。眠るためにラジオを消すと、一気に部屋に静寂が溢れて、本当にひとりになってしまったことを感じた。

 

いつからか僕は、重い服を好むようになった。

大きめのニット。長いコート。

からだに負荷がかからないと、自分の輪郭がある気がしなかった。どうやら、痛み以外の感覚も鈍くなってしまったみたいだ。

 

乾いてしまったセンサーは、なんの皮肉か、痛みだけを強く感じるようになっていく。

けれども僕は、痛みを伝える方法を知らない。

耐えるものだと思ってきたから、いまさらそれを外に出す術を持ち合わせていなかった。僕のなかでどうしようもなく肥大していく痛みは、抱えきれないほど大きくなって、僕をいつの間にか飲み込んでいった。

僕は、痛みをフィクションにして分けることにした。僕は、ぼくを助けたかった。

分けられた痛みは、大きな痛みを薄めているように見えて、じっさい切られ分けられていたのは僕自身だった。僕が僕に声をかけて、その僕がまた昔の僕をなぐさめて、その僕がまたまた昔の僕を撫でて......。じゃあ今の僕はどうすればいいんだ?

痛みを伝えるということは、人を頼ったり人に甘えたりすることだと思うけれども、誰かに頼ることも甘えることも許されてこなかったから、迷子の気分。許可証あるいはそれに準ずる言葉を渡してくれたらいいのだけれど、現実はそんなふうにはつくられていないし、そんなことを望むのは欲張りだと分かっている。

弱さを打ち明けたところで、ぶつけてしまった相手に対して罪悪感を抱き続けてしまう面倒さと数年向き合った末に、いつからか、こうしてフィクションに乗せて壁打ちするのが最善だと知ってしまった。4歳の僕が叱られながら言われた「怒っているひとの気持ち考えたことある?」という呪いは、こうしていまもずっと効いている。純粋なあの子は自分ではない誰かを真っ先に考えるようになって、自らを他者に寄り掛けることが出来ないまま大人になった。その、想像した気持ちというものが正解かどうかは分からないけれど、それを問いかける声すら、呪いで奪われてしまったらしい。声を失ってもひとのいるほうへ歩き続けた人魚姫のように強くはない。

 

けれども、僕は僕を可哀想だとは思わない。それはけっして強がりではなく。

呪いのおかげで、声ではない言葉の紡ぎ方を知った。大切にしたいひとの看病を遠ざける人間にはなりたくないと思えた。ひとの悩みを、一緒に見つめたいと思うようになった。きっと、幾分か、善い人間になれた。

 

いつか僕から書きたい言葉が消えたとき、僕はそれを幸せと呼ぶのかもしれない。あるいは他者の正面で怒れるようになった時か、助けを声で呼べた時か。

それはいつになるか分からないし、もしかしたらそんな時は来ないのかもしれない。急ぎはしないけれど、ほんの少し手を伸ばしてみたり。

 

ひとまずいまは、真綿の布団に包まれながら、流れる言葉を拾いたいと思った午前2時8分。

物語かもしれない

言葉は必要なのだろうか。

言葉を大切にする一方で、言葉では伝わらないことがあるという事実を認める日々。

大事にしすぎたゆえか、思う言葉を口にすることさえままならない性格をしている。不器用、でまとめるにはあまりにも面倒くさい。

言葉を一心に信仰しているわけではない。昔に言われたことを未だに引きずっていたり、ふと言ってしまった本心とは少し違うことにどうしようもないやるせなさを覚えたり。言霊であり、それは呪いにもなる。

 

言葉よりも行動、なんていうけれど、本当にそうだろうか。その言葉を発した/発さないという、それ自体が行動なのではないか。そう、だから、言葉と行動は二分されない。

 

「僕たち、さびしく無力なのだから、他に何にもできないのだから、せめて言葉だけでも、誠実こめてお贈りするのが、まことの、謙譲の美しい生き方である、と僕はいまでは信じています。」

太宰治『葉桜と魔笛』の一節である。いつもこの一節を心の奥底に大切に抱え、このように在りたい、と思っている。

けれども、言葉を誠実こめて贈るには、やっぱり私は幼すぎて、誠実こめて贈る言葉を箱に詰めるので精一杯。誰にも届かない荷物は、どこに行くのだろう?

綺麗にラッピングしたはずのそれは、決して現れない受取人を待ちながら、崩れていく。墓場にすら入れやしない、かつて形があったはずの何かをしまって抱える。臆病を言い訳に溜まった箱は埃をかぶって、ざまぁない。廃品回収、間に合うかしら。

 

言葉も、行動も、変わらない。両者はいつだって等しい。

 

冬が終われば春が来る。現実が、溶けてゆく。

絶望じゃんじゃじゃーん

下書きに、このタイトルだけ残されていた。作成日時は2022年6月4日。心当たりはないが、せっかくなので何か書いてみようと思う。

 

絶望って、そう頻繁にするものでもない。というか、本当に絶望をしたことなんて、ないかもしれない。それは、楽天家というわけではなく、ある種の諦念のなかにずっと漂っていることに由来するのだと思う。

楽天家という類の人間は、諦めを乗りこなしている人なのだろうか。いや、諦めというより期待を乗りこなしているといった方がいいのかもしれない。

期待の先にある失望への恐れに押し潰されそうになって、そうして人は諦めを選ぶ。

 

絶望と諦めはどちらが先か。

絶望しないために、諦めているような。絶望から自分を守るために、諦めを選ぶ。悲しき自己防衛本能なのかもしれない。その手段を身につけたのには、絶望が先にあって、絶望が先か諦めが先かなんて、ニワトリと卵。

自分のことは自分で守ると決めた鎧は、かえって私を締めつけ、鈍い痛みを覚えさせる。

痛みを忘れるための笑い。強がりの笑顔はうつくしくて、眩しいけれど、がらんどう。

明るい誤魔化しが、せめてもの誠意と思わざるを得なかったこれまで。お面と皮膚の区別もつかなくなって、自分じゃどうにも剥がせない。遠い昔に言われた言葉が、今でもずっと接着剤。

笑えよ、笑え。道化は道化のままで眠る。

待てど暮らせど糊は溶けない。いつかの前に、いまが消える。

なるほど。だから、絶望じゃんじゃじゃーん?

 

おやすみなさい。夜は、長いほうがいい。

 

(こんな感じ?)

深夜にお菓子を食べた。

夜型の生活だけれども、夜に物を食べる習慣はない。

いわゆる夜食も食べたことがないし、修学旅行以外で夜中にお菓子を食べたこともなかった。はじめて、自分で、深夜にお菓子を食べた。

なぜ今まで食べたことがなかったのか?

空腹を放っておくような人間だからである。積極的な食事(そして睡眠)が苦手。自分というものと、生活すなわち真っ当に生命を繋ぐことが、いまだに結びついていないような感覚がある。

 

だけど!好きなたべものはありますよ。

何だか急に、口調を変えたくなりました。文章というのは怖いもので、書いている口調に思考までもが引っ張られてしまう。沈もうと思えば、深い底へと沈んでいけてしまうのです。

思い込みって、要は自分の言葉に支配されるということではないでしょうか。誰かの言葉を聞くことしか、その対処法はなくて、でも、その誰かを見つけるのが難しい。

 

何を書こうとしていたのでしたっけ?深夜にお菓子を食べた話?

とりあえず、まぁ、白状すると、飴を一粒舐めました。

歯磨きは、きちんとします。

いみ、イミ、意味

言葉遊びをしてしまうことがある。

駅のホーム、信号待ち、進まない会議、つまらない飲み会。ふと頭のなかに余白ができた時、ひとりで言葉遊びをする。

ルールはただひとつ、「意味をつけないこと」。

意味なんてものは、あればあるだけ苦しくなる。理由なんてものも、きっと本当はなくて、ただただ自分がまともに見えるように言っているだけ。

 

「ごめん、待った?」

「ううん、全然」

 

隣の席でずっとスマホを弄っていた女性が、スクリーンから顔をあげる。彼女は私が来る前から、そこに座っていたはずだ。

 

言葉に、意味があること。

言葉に、意味がないこと。

言葉の、意味を捨てること。

言葉の、意味を求めること。

 

輪郭をもつ以前の言葉とは、果たしてどのようなものだったのだろうか。

モノ? あるいはコトかもしれない。

もしくは、意味が乗せられて初めて、言葉はモノからコトへ変わるのかもしれない。

 

モチーフとして言葉を遊ぶ。言葉で遊ぶ。言葉と遊ぶ。

言葉を飼って、言葉に飼われる。

 

あなたの言葉を、教えてください。