ねりあめ屋

ねりあめ屋です。

物語かもしれない

言葉は必要なのだろうか。

言葉を大切にする一方で、言葉では伝わらないことがあるという事実を認める日々。

大事にしすぎたゆえか、思う言葉を口にすることさえままならない性格をしている。不器用、でまとめるにはあまりにも面倒くさい。

言葉を一心に信仰しているわけではない。昔に言われたことを未だに引きずっていたり、ふと言ってしまった本心とは少し違うことにどうしようもないやるせなさを覚えたり。言霊であり、それは呪いにもなる。

 

言葉よりも行動、なんていうけれど、本当にそうだろうか。その言葉を発した/発さないという、それ自体が行動なのではないか。そう、だから、言葉と行動は二分されない。

 

「僕たち、さびしく無力なのだから、他に何にもできないのだから、せめて言葉だけでも、誠実こめてお贈りするのが、まことの、謙譲の美しい生き方である、と僕はいまでは信じています。」

太宰治『葉桜と魔笛』の一節である。いつもこの一節を心の奥底に大切に抱え、このように在りたい、と思っている。

けれども、言葉を誠実こめて贈るには、やっぱり私は幼すぎて、誠実こめて贈る言葉を箱に詰めるので精一杯。誰にも届かない荷物は、どこに行くのだろう?

綺麗にラッピングしたはずのそれは、決して現れない受取人を待ちながら、崩れていく。墓場にすら入れやしない、かつて形があったはずの何かをしまって抱える。臆病を言い訳に溜まった箱は埃をかぶって、ざまぁない。廃品回収、間に合うかしら。

 

言葉も、行動も、変わらない。両者はいつだって等しい。

 

冬が終われば春が来る。現実が、溶けてゆく。