ねりあめ屋

ねりあめ屋です。

いつだってご機嫌で

眠るとき、朝に目が覚めたらリビングに行きたくなることを想像する。

それは現実とは程遠いことで、実際にやってくるのは、部屋でひとり、人の気配が無くなるのを待つ朝。

帰りたくなる場所がいつか手に入りますように。そこに誰かがいてもいなくても、帰りたくなるどこかがある、ただそれだけで良い。

けれども祈りである時点で、必ずしも叶わないこと。欲しいものは自分で手にしなきゃ。

 

最近、自分のことを好ましく思う。

なんというか、わたしいい感じだな!みたいな。気分が朗らかな時は、わたし最高だな!とすら思ったりする。なかなかに楽しい。どこがいいのかは、はっきりとは言えないけれども。

友人などから、あなたの空気が好きだと言ってもらうことが時折ある。やや疎遠になってしまった友人からは、あなたから滲み出るものから離れてしまって寂しい、と言われたり。ただの思いつきだけど、疎遠って疎縁ってことだ。

話を戻そう。そうやって言われるたびに、嬉しさ反面、私の纏う空気って一体なんだ?と考える。振る舞い方ということなのかとも思ったが、全く別のコミュニティにいる友人それぞれから言われたりするので、そうではないらしい。容姿とか性格なら理解しやすいけれど、空気ってなんぞや…。

せっかく周りのひとが認めてくれている私の良さを、当の本人がわからないのは少し悲しい。

近頃自分を受け入れつつある私は、「空気」を「存在」に拡大解釈してみたりした。それってつまり私の存在が好きってことでいいですか?という、自己肯定感が天井を突き破る勢いの問い。ありがたいことに、この馬鹿げた質問に大きく頷いてくれる稀有な友人もなかにはいる。でもさすがに、私の存在が好きってことだと解釈するのは気恥ずかしい。いま、この一連の文字を綴っていてもとても恥ずかしい。それでも文字を消さないのは、そうやって私を受け止めてくれる人がいるということを消したくないので。

何はともあれ、清々しさを持つと呼吸が楽になる。

 

こうして、自分自身を自らの帰りたくなる場所にしていくのだろうか。

その作業は、自身の輪郭を確かめていく行為でもある。春、すべてがぼやけ曖昧になる季節。柔らかい痛みを知ったあの頃にはとうに別れを告げるべきで、あとはしっかりと地を踏まなければならない。春を思うとはよく言ったものだ。

その変化は羽化と呼べるほど綺麗ではないが、もとよりいつでも美しくある必要はない。泥臭くもがいてみるのも乙なものだと、いい塩梅に肩の力が抜けた今日この頃。

 

真実は余白から生まれるのがお約束。

めでたしめでたし。